あれから一月・・・
形あるもの・・・
いつかは風化し無くなる。
昨年12月2日(木)夕方、お袋から電話が入る。
携帯から伝わるその声が、声になっていなかった。
お袋の声を耳にした瞬間・・・
悪い知らせに違いないと察した。
「もう、長くは無いって・・・」
18:30に
東京駅発
新潟行きの新幹線に乗り込み
新潟駅から鶴岡(
山形)行きの電車に乗り換える。
日本海を北上する特急いなほの中で、時折車窓越しに
見える日本海の荒波を眺めながら考える・・・
「おやじ・・・」
23:30鶴岡駅に付くと妹が迎えに来てくれていた。
「お兄ちゃん・・・」
泣いている妹の肩を強く抱き、
「大丈夫!おやじは強いから」
妹を慰めると同時に、自分に言い聞かせた。
声を発した瞬間・・・駅の天井を眺めて涙をこらえた。
まだ泣いてはいられない。
翌、12月3日(金)主治医の話を聞く。
おやじの病名は、間質性肺炎急性増悪。
この病気は肺が急激に硬くなり(伸縮が出来なくなり)
呼吸困難となり死に至る。
この病と診断されると、命は数日・・・
救命率は10%の不治の病。
失望の中、親父の病室に向かう。
当然おやじは病状を知らない。
当初、検査入院で11月末に入院したおやじは
もうじき退院できる物だと考えているのだ。
病室の扉を開ける。
鼻に酸素吸入用のチューブをしているおやじ・・・
少し痩せてはいたがいつもの、おやじだった。
おやじは咳き込みながら、
「仕事は大丈夫か・・・子供は元気か・・・」
たわいもない会話をする。
話をすると酸素を消費するので苦しくなる。
「おやじ、少し休めよ・・・」
「検査入院が思いのほか長引いているみたいだから
もう少し我慢な・・・」
と言うと、おやじはにこりと笑い、頷いていた。
辛い嘘をついた。
大量のステロイド、免疫抑制剤を投薬するしかない治療。
その日以降病状は悪化していった。
12月の全ての週末は、市川と鶴岡を往復した。
22日深夜、
東北自動車道を北上する。
村田JCTから
山形道にはいると雪が舞い始めた。
笹谷峠の手前からは視界が殆ど利かない猛吹雪となり
歩みが遅くなった。早く鶴岡に着きたい。
この時ばかりは
山形の風土を恨めしく思った。
おやじの、とうげは近い・・・
早朝、病室に入る。
お袋、妹がおやじのベッドの両脇に居た。
親父の呼吸が荒く、鼻からの酸素吸入だけでは酸素量が足りず
マスクタイプの物に変わっていた。口からも酸素を取り込まなければ
ならない為だ。体全体で呼吸をしており苦しそうな表情だった。
この時、既に意識は無かった。
最後におやじと交わした言葉が何だったのか・・・思い出せなかった。
24日のクリスマスイヴ、おやじ、お袋、妹、弟、自分の家族5人が
揃った。弟が言った。
「家族5人のクリスマスは何年ぶりかな・・・」
妹が、「子供の頃、お父さんが中々仕事で帰ってこなくて家族4人で
クリスマスなんて時もあったよね・・・」
自分が「俺が、高校生までは実家に居たから約25年ぶり4半世紀か」
お袋が意識の無いおやじの手を握り締め、
「お父さん、今日はクリスマスで何十年ぶりに皆が揃ったよ。聞こえる」
お袋は、泣いていた。
家族5人でのクリスマスイヴ・・・今年が最後となった。
その夜、自分とお袋はおやじのそばにいた。
日付が変わり25日の早朝4時頃、自分はおやじの手を握り
意識の無い、おやじに一人語りかけていた。
「おやじは何でお袋と結婚したのか」
「生まれ故郷の郡山(
福島)にもう一度帰りたかったのではないか」
「何で仕事がそんなに好きだったのか」
「何で自分の時間を作って自分の人生を楽しまなかったのか」
「何で子供の頃、もっと遊んでくれなかったのか・・・」
子供の頃、自分はおやじに遊んでもらった記憶が殆ど無い。
遠い昔のおやじの記憶は、毎日仕事・・・
高校生の頃、夜遊びをして深夜帰宅すると
茶の間で安い酒を飲んで疲れてコタツで丸くなって寝ているおやじ。
昔のおやじは朝、早く家を出て遅くに帰宅。日曜日も殆ど仕事。
おやじは何が楽しいんだろうか。
当時、そんなおやじを自分は軽蔑していた。
そしておやじに語り続けた。
「でも俺はおやじの息子で良かったと・・・」
その時、おやじが搾り出すような声で自分に
「ありがとう」
と言ってくれた。
目の前が曇り涙がこぼれ落ちそうになったが、
病気と闘っているおやじの前では泣いてはいられなかった。
自分は、おやじの為に何もしてあげることが出来なかった・・・
親孝行をしていない自分に後悔した。
おやじが自分に最後に残してくれた言葉は「ありがとう」だった。
その後、色々と話しかけると手を強く握り返してくれた。
仮眠をしていたお袋を起こし意識が戻った事を伝え
自分は病室を出た。
25日の夕方、酸素の吸入量が15Lを超えた。
主治医曰く、本人は相当辛いはずですから御家族の判断が
必要です・・・と伝えられる。
それはどういうことなのか・・・モルヒネを打って意識を徐々に
無くし安らかに息を引き取ってもらうという事なのだ。
お袋がおやじに聞いてみる。
「辛いでしょ・・・」
おやじは辛いのに首をかすかに横に振る。
しばらくしてから
「楽になりたい・・・」
と聞くと、優しい目をしてかすかに頷いた。
その後、モルヒネを投薬すると30分後に、おやじは
安らかに旅立って行った。
最後まで、辛い、苦しいと一切弱音を吐くことがなかったおやじ。
楽になりたい?とお袋が聞いた時の、おやじの優しい目は
きっとおやじが家族の皆に対して、
最後まで俺に良くしてくれてありがとう・・・
もう俺は大丈夫だから・・・
そんな事を伝えたかったのではないかと思う。
おやじが息を引き取ってからは悲しんでいる暇が無かった。
火葬、通夜、告別式の段取り調整・・・
自分、弟、妹は告別式が終わる30日まで殆ど寝る時間が無かった。
おやじは71歳で息を引き取ったが検査入院をする前日の
11月25日まで普通に仕事をしておりまた会社上役と言うこともあり
大勢の方々に葬儀へ参列いただいた。
私達遺族の前で泣いてくれる方々も多く、おやじの意外な一面や
偉大さを知った瞬間でもあった。
12月31日、実家の茶の間では紅白歌合戦の映像が映し出されていた。
妹夫婦その息子達は、静にモニターを眺めていた。
お袋と弟は、昔のアルバムを1ページごと丁寧にめくっていた。
自分は、かみさんと仏前に線香をあげながら親父の思い出などを
ポツポツと話していた。
かみさんが「良いお父さんだったね・・・ちゃんと御礼がしたかった」
と呟いだ。
御礼・・・
自分も親父に御礼をしていなかった。
席を外し携帯電話でアドレスNo03を押してみる。
おやじの携帯・・・
繋がるはずの無い携帯とわかってはいるが発信してみた。
・・・
「御客様の御掛けになった・・・」・・・
「御用の方は伝言をどうぞ」・・・
自分がおやじに伝えたかった言葉
「おやじ、ありがとう・・・」
心を込めて伝えた。
1月5日、市川に戻るこの日、朝食を済ませた後にお袋が
「お父さんが使っているタンスの整理をしたいけど一人では
辛いから一緒に見てくれない・・・」
と言うのだ。正直、気が進まなかった。
扉を開けると日頃、身に着けている物などが目に飛び込んできた。
いつも着ていたブレザー、作業着、仕事の道具・・・
お袋は泣きながらそれらの物を順番に取り出して綺麗に
たたんでいた。
しばらくするとタンスの奥から大きな紙袋が2つ出てきた。
その中の一つを覗くと大きな茶封筒が幾つか入っていた。
茶封筒の表に平成15年10月4日、まさ○○(自分)結婚式
と書いてあった。
自分の結婚式当時の新聞、スナップ写真が10枚ほど、
メモには、「まさ○○ようやく結婚、一安心。早く孫の顔が見たい・・・」
別の封筒には平成19年3月10日、よ○の誕生。
新聞、写真、メモが・・・
メモには、「初めての孫娘、結婚式に出たい物だ。」
それ以外に妹の結婚式の物など幾つもあった。
もう一つの紙袋には、過去に自分や妹、弟が
プレゼントした
物や、筒状に丸められた古い画用紙が幾つか入っていた。
自分が社会人となり初任給を貰った際に、
プレゼントした
VANのネクタイ、妹が新婚旅行の御土産で
プレゼントした
ダンヒルの財布など大事に箱に入って保管されていた。
画用紙の1つは、S53.5.22とおやじの字だった。
画用紙を見ると、自分が小学生の時に書いたであろう
絵だった。家族で釣り磯遊びを楽しんでいる絵だった。
他にも、妹が幼稚園の頃に書いた、おやじの似顔絵。
弟が金の折り紙で作ったおやじへのメダル・・・
昔、軽蔑していたおやじ・・・
遊んだ記憶が無かったおやじ。
でも、自分、妹、弟、子供たちのわずかな楽しい思い出を
そっとしまっていてくれた、おやじ。
家族を大切にしていてくたおやじ。
自分が遠い昔に忘れてきた思い出をおやじは大事に
宝物のように取っておいてくれた。
そんな、家族、子供、孫に対する親父の思いを知った時
泣かないと決めていたのに涙が止まらなかった。
あれから丁度一ヶ月
おやじが居ない事を実感する。
もう一度、ゆっくりと話がしたかった・・・
もう一度、一杯やりたかった・・・
もう一度・・・
今回、このような記事をアップした事を御許し下さい。
サークルの皆様。ブログで知り合った仲間の皆さんは
自身にとって大事な方々ばかりです。
その大事な方々に甘える形になってしまいますが
おやじが生きてた事を少しでも伝えたい・・・
そのような思いから記事にしました。
皆さん、ごめんなさい。
GDOブログ閉鎖まで残された時間はわずかですが
今後、身の振りをどうしようか・・・
時間が必要だと考えています。
少し休みます。